ブライアンアダムス

10代から音楽活動を始め、19歳でA&Mレコードとソングライターとして契約。すぐにシンガーとしても契約を結ぶ。

1980年2月、デビュー・アルバム『ギヴ・ミー・ユア・ラヴ』、1981年6月に2作目のアルバム『ジェラシー』を発表。1983年1月に発表された3作目のアルバム『カッツ・ライク・ア・ナイフ』が全米アルバムチャート8位(全英21位)となり、「フロム・ザ・ハート」が全米チャート10位(全英51位)、「カッツ・ライク・ア・ナイフ」が全米チャート15位(カナダ12位)、「ディス・タイム」が全米チャート24位(カナダ32位、全英41位)と、3作のリカット・シングルがヒットする。

1984年にリリースされた4作目のアルバム『レックレス』が世界的大ヒット。年間チャートでもブルース・スプリングスティーンの『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』に次ぐ2位を記録。シングル・カットされた「ヘヴン」が、自身初のシングルチャート(ビルボード)全米ナンバーワンとなる(カナダ11位、全英38位)。その他、「ラン・トゥ・ユー」「サムバディ」「想い出のサマー」「イッツ・オンリー・ラヴ」のリカット・シングルもヒットした。

ラムシュタイン

バンド名の「ラムシュタイン」は、1988年8月28日に航空ショーで事故が発生した旧西ドイツのラインラント・プファルツ州の街、ラムシュタイン-ミーゼンバハ(Ramstein-Miesenbach)から取られた(彼らのバンド名にはmが一つ多い)。彼らの曲の歌詞がほとんどドイツ語であるにもかかわらず、バンドはドイツ国外でも成功している。1996年にアメリカの映画監督のデヴィッド・リンチにPVの製作を依頼するのだが、リンチが多忙だったために実現しなかった。しかし映画を撮影中BGMとして何度か聞いているうちにラムシュタインを気に入り、リンチが翌年公開の自分の最新映画ロスト・ハイウェイに『Herzeleid』収録の「マリー・ミー (Heirate Mich)」と「ラムシュタイン (Rammstein)」の2曲を起用することになり、これがアメリカに進出するきっかけとなった。

ロクf

創刊号は1976年7月号、表紙はジミー・ペイジ。発売日は1996年まで毎月8日に発売、1996年~2001年までは毎月27日発売だった。当初はイギリスの雑誌「Melody Maker」誌の日本語版として発行されていた。表紙を飾っていたアーティストは1970年代までは海外アーティストであったが、1980年代に入りYMOやRCサクセションと言った日本のアーティストが中心になった。

1983年あたりからハードロック色の強い雑誌となり、1984年にはヘヴィメタルが8割を占める様になる。主に日本のヘヴィメタル、「ジャパニーズ・メタル(通称ジャパメタ)」中心の雑誌となり、LOUDNESSや浜田麻里が表紙を飾ることが多くなった。

レーナードスキナード

1973年にMCAレコードからアルバム『レーナード・スキナード (Pronounced Leh-Nerd Skin-Nerd)』でデビューした。1974年にはアルバム『セカンド・ヘルピング』からのシングル「スウィート・ホーム・アラバマ (Sweet Home Alabama)」が大ヒット。

この曲はニール・ヤングの「サザン・マン」「アラバマ」といった曲へのアンサーソングとして知られている。また、同年にはデビュー・アルバムから「フリー・バード (Free Bird)」がシングル・カットされてヒットした。サードアルバムからは「サタデイ・ナイト・スペシャル (Saturday Night Special) 」がバート・レイノルズ主演の映画『ロンゲスト・ヤード (The Longest Yard)』の挿入歌に採用された。

トリプルリードギターを擁する重厚な音を特徴とし、オールマン・ブラザーズ・バンドやアトランタ・リズム・セクションと並ぶサザン・ロックの旗手として、ライヴでは多数の観客を動員する人気バンドとなった。最盛期(1976年前後)には南部でのライヴにおいてカルロス・サンタナを前座とするほどの人気を誇った。

音楽的には当時隆盛のブルース・ロックをはじめとするブリティッシュ・ロックに強い影響を受けつつも、アメリカ南部土着のカントリーのセンスを保持し、後にサザン・ロックと呼ばれる音を作り上げた。また、ヴィジュアル・イメージに南軍旗を使うなど、アメリカ南部の、悪く言えばレッドネックのイメージを強く持っていたが、それが南部ではバンドへの根強い支持に繋がっていた。

アーチエネミー

1995年、イギリスのデスメタルバンド「カーカス」の、アグレッシブな演奏に泣きのメロディーを導入しヘヴィ・メタルの一般リスナー層に大きな衝撃を与えた4thアルバム『HEARTWORK(ハートワーク)』に参加したマイケル・アモットによって結成される。彼はバンド脱退後スウェーデンに戻りしばらくバンド「スピリチュアル・ベガーズ」を結成し活動していたが、デスメタルのプロジェクトとしてアーチ・エネミーを立ち上げ、1stアルバム『BLACK EARTH(ブラック・アース)』を制作。このアルバムのクオリティは高いものだった。

スティーリーダンが結成されるまで

ドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーはニューヨークのバード・カレッジ在学中に知り合い、共同で曲作りを始める。カレッジ卒業後(ベッカーは中退)2人は作曲家として活動するが仕事には恵まれず、ジェイ&ジ・アメリカンズのバックミュージシャンなどで糊口を凌いでいた。この頃に作られたデモテープは、後に「ベッカー&フェイゲン」名義の作品集としてレコード、CD化されている。

ようやくABCレコードのプロデューサーのゲイリー・カッツに才能を見出された2人はロサンゼルスに移住、バンドとしてレコード・デビューするために旧知のミュージシャンを呼び寄せ、スティーリー・ダンを結成した

マイケルボルトンのハードロック時代

ヒットに恵まれなかったためソロ活動をやめ、1970年代末に新たにハードロックバンドのブラックジャックをブルース・キューリックらと結成。ポリドール・レコードと契約して1979年にデビューする。バンドは『Blackjack』『World’s Apart』と合計2枚のアルバムを発表、オジー・オズボーンとツアーを行うなど積極的な活動をするものの、短命に終わる。

再びソロ・アーティストに戻ってコロムビア・レコードと契約し、名義をマイケル・ボルトンに変更してアルバム『マイケル・ボルトン』(1983年)を発表。当時の邦題は『大いなる挑戦』で、キャッチコピーは「ひとりメタル」だった。

ソウル中心のシンガーだが、そういう時期があった。

REM

歌詞やバンドの姿勢にこめられた文学的・政治的なメッセージや、楽曲の高いア-ト性から、1980年代におけるUSカレッジ・チャートの雄としてアンダーグラウンドシーンに君臨。世界で最も重要なロックバンドと称されることもある[1]。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第97位。

バンド名はレム睡眠(Rapid Eye Movement)に由来すると言われているが、本人らは明言しておらず諸説ある。なお、メンバーのマイク・ミルズはCDジャーナル2011年3月号のインタビューでRemember Every Momentという解釈に言及している。

2011年に解散してしまったのは残念。

多芸多才なブルースディッキンソン

メイデンの名シンガー、ブルースディッキンソン。

彼はメタル界でも随一の多芸多才人だ。

イギリスの航空会社 アストライオス航空でボーイング757のパイロットを勤め、ファンサービスの一環としてコンサート会場国への送迎なども行っている。アイアンメイデンの近年のワールドツアーに於いても自ら操縦桿を握り、チャーター機を操縦している。またテレビ番組の企画でソ連戦車T-34も操縦した。フェンシングやクリケットの腕前も確かで、アイアン・メイデンを一時脱退していた時期にはクリケットのイギリス代表メンバーとして世界を転戦した経歴を持つ。フェンシングにおいてもオリンピック代表クラス、プロ級であるらしい。元々は歴史教師になるためにロンドン大学で歴史学を学んだインテリであり、そのほか映画の脚本や小説執筆も手がけるなど、本当にカヴァーが広い。

アクセルとボンジョヴィ

アクセルローズはヴィンス・ニール等とトラブルを起こしていたが、ジョン・ボン・ジョヴィとも長くに渡り確執が続いていた。

ジョンも数年前のインタビューで、13年間もレコードを出していないことを批判し、自身のキャリアには遠く及ばないと発言した。しかし、こうした2人の状況はアクセルの親友で、同じくジョンを最も嫌っていたセバスチャン・バックによって修復へと向かう。

2006年に、ロンドンのバーでアクセルとワインを飲んでいたセバスチャンは、偶然にもそこにジョンがいることを発見する。この2人も昔、楽曲の版権問題でお互いを激しく中傷しあった間柄である。しかし、セバスチャンはジョンへと近づき、笑顔で久しぶりに挨拶をしたのである。驚いたジョンだったが、アクセルもその輪へと加わり、飲み会を始めたのである。ジョンはワインを2人に何本も振る舞い、アクセルもジョンのビジネスの才覚に興味を持ち、いろいろと質問し3人で談笑したのだという。