ダイムバックダレルの逸話

若くして州全体のギター・コンテストで7回ほど賞を受賞する。16歳の頃になると「コンテスト荒らし」の異名を取るようになり、最終的には主催者側からコンテストへの出場を禁止され、その代わりに審査員を頼まれたという経緯から、当時からギターの上手さは群を抜いていたと言える。

これは凄い事だ。あまりにウマすぎるので参加させてもらえず、替りに審査員という抜擢。

これらのコンテストで獲得した景品の中には後にパンテラでトレードマークとなる稲妻ペイントのディーン製ギター、ランドールのアンプ、ジャクソンやESPのギター等があった。

アクセルVS

ガンズアンドローゼスとは、アクセルローズVS他のメンバー、というバンドだ。

2001年の4月スラッシュのソロ・アルバムに、アクセルを除いた結成時のオリジナルメンバー全員が参加した。

同年8月、レディング・フェスティヴァルで終了時間に制限があるため、事前に警告されていたにも拘らず1時間の遅刻をし、アンコールの前に主催者にPAシステムの電源を抜かれるという失態を犯した。さらに翌月には、ダブリンに於いて40分遅刻した際、ファンからペットボトルなどを投げつけられるなどしたため、ショーを20分で切り上げて帰ろうとした(スタッフの説得で、なんとかフルセットを演奏し終えた)。

それにしてもアクセルは太って、まるで風貌が変わってしまった。

2006年頃は以前とは違うけど、それはそれでクールだったのが・・・

バウティスタ

1772年、彼はアルタ・カリフォルニアの探検をニュースペイン副王に願い出た。これはスペイン王によって認可され、1774年1月8日、3名の牧師、20名の兵士、11名の使用人、35頭のラバ、65頭の牛、140頭の馬と共に、アリゾナ州のトゥバクからツーソンまで旅をした。遠征はリオ・アルター(ニュースペインのソノラ・イ・シナロア)沿いの南のルートを取り、現在のメキシコとカリフォルニアの境界と並行して、よい関係を築き上げていたユマ部族の領地であるヒラ川との合流地点でコロラド川を渡った。1774年3月22日にはカリフォルニア沿岸近くのサンガブリエル・アルカンヘル伝道所に到達し、4月19日にはアルタ・カリフォルニアの首都のモントレーに到着した。1774年5月後半までにはトゥバクに戻った。この遠征は副王とスペイン王に重く見られ、1774年10月2日、彼は中佐の位に昇進し、アルタ・カリフォルニアへ入植者の集団を率いるように命じられた。

アドルフ・ムーロン・カッサンドル

1922年に最初の広告の仕事を世に送り、このとき作家名として「カッサンドル」(Cassandre)と署名した(1928年頃まではしばしば「ムーロン・カッサンドル」と署名している)。

カッサンドルは初め、この職は画家として身を立てるまでの食い扶持のために過ぎないと考えており、「絵画はそれ自身で目的になるが、ポスターは売り手と公衆の単なるコミュニケーション手段にすぎない」とはっきり認めていた。言うなればこの明瞭で読み取りやすいメッセージへの指向こそが、後に彼のヴィジュアル・コンセプトに建築的・幾何学的構成を導くこととなったものであるといえる。カッサンドルはパブリシティのためのグラフィックデザインに習熟するに連れて徐々にこれに熱中してゆき、これを「(芸術画家が)失った公衆との回路を再発見する」手だてであると考えるようになってゆく。

ハロウィンの創世記

ハロウィンの前身は1978年にカイ・ハンセン(ボーカル・ギター)とピート・シールク(ギター)がハンブルクで結成したジェントリー(Gentry)というバンド。1981年にセカンド・ヘル(Second hell)へ改名し、インゴ・シュヴィヒテンバーグ(ドラム)・マーカス・グロスコフ(ベース)が加入したが、エンジニアになるためにシールクが脱退。今度はアイアン・フィスト(Iron Fist)に改名した。1982年、ギタリストのマイケル・ヴァイカートは自分のバンド、パワーフール(Powerfool)にハンセンを誘うが、結局ヴァイカートがアイアン・フィストへ加入した。

前述の経緯でHelloweenにバンド名が確定し、1984年にノイズ・レコードのコンピレーションアルバム『Death Metal』に『Oernst Of Life』・『Metal Invaders』の2曲で参加。

セシル・シャミナード

パリのブルジョワジーの家庭に生まれる。母の手ほどきでピアノを始める。幼年期から作曲を試み、8歳のときいくつかの宗教曲をジョルジュ・ビゼーに演奏して聴かせ、「小さなモーツァルト」と呼ばれて可愛がられた。当時のパリ音楽院の作曲科は女性に対して公式な入学許可を与えていなかったため、個人教授でル・クーペやサヴァール、マルシックにピアノを、バンジャマン・ゴダールに作曲を師事した。しかし、父親は彼女の音楽学習を容認しようとしなかった。

18歳で最初の演奏会を行い、徐々に作曲家としての認知を受けるようになった。1879年に国民音楽協会の正会員に迎えられる。アンブロワーズ・トマは彼女を評して、「作曲する女性というより、女性の作曲家というべきだ」と述べている。